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刈谷の魅力発掘! 刈谷城の巻

刈谷城パース

刈谷城復元イメージ図

皆さんは、以前刈谷に城があったことはご存知ですか?現在の刈谷市城町に刈谷城(別名亀城)が建てられました。今回はこの「刈谷城」についてご紹介していきたいと思います。 刈谷城は天文2年(1533年)に水野忠政によって築城されました。今から約480年前にできたお城です。そして、築城主の水野忠政は徳川家康の生母、於大の方(伝通院)の父親です。刈谷と徳川家はこのことからも、とても深い結びつきがあったことが分かります。

刈谷城

刈谷城復元イメージ図

刈谷城下町

刈谷城は、衣ヶ浦(ころもがうら、三河と知多半島の間に位置する入江)の北端東岸に面して築かれていました。水運の便を図るため、船着き場も設けられていました。その後、江戸時代以降は干拓が進み、衣ヶ浦辺りは逢妻川の河口となったようです。築城当初の刈谷城は「海城」という性質を持っており、「亀城」という別名も周囲を水に囲まれた海域であったことに由来するのではないでしょうか。構造は、西から順に本丸、帯曲輪(おびぐるわ)、さらに入江のない他の三方に堀が巡らされて、二の丸、三の丸と続き、三の丸東側に大手門が置かれていました。天守はなかったのですが、北西と南東の隅櫓があり、周りを土壁で囲んで本丸を形成し、二の丸との間には内堀と馬出しが設けれられていました。また、本丸の東側の土壁には石垣を積み上げていたようです。この石垣のほとんどが江戸時代以降の改修によって増築されたものですが、北西隅櫓跡の建物の裏側にはわずかながら、築城当初のものと思われる石垣が現存しています。亀城公園を訪れた際には、この石垣を探してみるのも面白いかもしれませんね。 築城主、忠政の死後、息子の信元が新しい城主になり、その後、忠重、勝成、忠清と5代百年の水野氏の居城を経て、寛永9年(1632年)に深溝松平家入城、その後久松松平家(1649年)、稲垣氏3代(1651年)、阿部氏2代(1702年)、本多氏(1710年)、三浦氏3代(1712年)と頻繁に城主の交代がありました。1747年より土井氏9代支配の後、明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、建物は取り壊されました。その後跡地は国有化された後、旧士族に払い下げられ、さらに昭和11年(1936年)刈谷町が譲り受け、公園として整備されましたが、第二次大戦中に軍の高射砲陣地が置かれ、荒廃してしまいました。戦後に至り、公園整備がされ、現在の亀城公園となり、春には桜の名所にもなっています。